ハッピーエンドが嫌い

昔から、最終的にきれいごとばかりでまとめようとするハッピーエンドが、どうも好きになれない。

とはいっても、全てのハッピーエンドが嫌いという話ではなくて、それがバッドエンドではあり得ない展開なのであれば受け入れることはできるし、想像していないようなハッピーエンドなのであればむしろ大歓迎だという気持ちは持っている。

つまりはどういうシナリオを好んでいるのか。
おそらく、何か作品をみたり体験するものに対し、まっとうでお手本のようなシナリオよりも、「裏切られたい」という気持ちがとても強いんだと思う。
誰にでもある感情だとは思うけど、自分はおそらくもっとひねくれたものなんだろう。

「裏切り」が「面白い」に強く繋がってしまっていることから、比率としてはバッドエンドよりかは高いとみられるハッピーエンドに対して、「どうせ最後にはハッピーエンドでまとまるんだろ」という気持ちがある一方で、「そうきたか!という展開が欲しい」という気持ちも同居しているわけで、「どうせ最後にはハッピーエンドでまとまるんだろ」という作品については、大どんでん返し、つまりはバッドエンドか、想像していないハッピーエンドを期待してしまう、という精神構造なんだろうな。

胸が高鳴った「絶望感」

ゲームにたとえてみると、中学生の頃、ファイナルファンタジー6を初めてプレイしたときには、あの絶望感いっぱいの不協和音と共に現れる、それはそれは暗いオープニングロゴを見たとき、「これは今までのテイストとは違う」といきなり心を掴まれ、とてもわくわくしたのを覚えている。

ファイナルファンタジーVI

ドラクエのような、予めわかりきっていてできあがっている世界観は、それはそれで楽しめるので悪いとは全く思わない。
むしろ、鳥山明の絵で動き回るドラクエワールドは、あの世界観は崩してはいけないと思っている。
ただ、FFについては個人的に毎回毎回「何かやってくれる」という期待が込められているというだけであって、この一種の新しい体験にはぐっと掴まれてしまったのだろう。

中二病という定義がいまいちわかっていないので違うかもしれないけど、これを中二病と言うならば、まさにこのFF6をやっていた中学生の頃からずっと中二病を患っているのだろう。
もう中二からはちょうど20年経ってしまったけど、仕方ない。中二でも別にいい。
胸を張って中二・・とは、ちょっと言えないけど。

現実的な話ならば、現実味のある着地のさせ方を

20年前くらいの、しかもゲーム話になってしまってわかりにくいので、最近のドラマとか、わかりやすそうなたとえにしてみると、リーガルハイなんかは面白いと思っている。

きれいごとだけが正義ではないし、それだけで解決しない問題もたくさんあるのだ、といった現実をつきつけてくるこのスタンスは好きだ。

現実的に考えてこうしたほうが皆幸せなんだ、という見せ方とか、その中で、何が本当の正義なのか、正義とはなんなのか、テレビならではの過剰な演出を加えつつ、何かと心に残るシナリオをうまくみせていくテンポの良さは絶妙なバランス調整だと思うし、うまい着地のさせ方だと思えた。
※「リーガルハイが現実的?」という話をしているわけではないので予めご了承ください

色々書いてしまってまとまりがないし、自分が伝えたいことが全然伝わっていないかもれないけど、とりあえず言えることは、「明らかに死んでいるはずなのに、なぜだか実は生きてましたー」とか、そういうご都合主義ハッピーエンドではなく、説得力のあるハッピーエンドにしてほしいということなんだと思う。
まあだけど、一番嫌いなのは、別に殺すことになんの意味もないのに、「最後にここで死んじゃったら皆びっくりするだろう」という魂胆ばればれのようなバッドエンドなのかもしれないな。

ここまで書いていて思ったことは、自分はなんて面倒くさい人間だろうかということでした。
この度は、自分の文章が一番着地していなくて申し訳ありませんでした。終わります。

 
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